はじめに
「うちは財産なんて大したことないから、相続で揉める心配はないよ」
そう思っている方も多いのではないでしょうか。でも、相続の話を長く見てきて感じるのは、財産の多い・少ないだけで、家族が揉めるかどうかが決まるわけではないということです。
裁判所の令和6年(2024年)の司法統計を見ると、家庭裁判所の遺産分割事件のうち、認容または調停成立となった7,974件の中で、遺産額1,000万円以下が2,835件、1,000万円を超え5,000万円以下が3,373件となっています。つまり、5,000万円以下のケースだけで約78%を占めています。
「相続争いは資産家だけの話」とは、必ずしもいえないことが分かります。むしろ、実家と預貯金が少し、といったごく一般的な家庭でも、財産の分け方や家族それぞれの考え方の違いから、話合いがまとまらなくなることがあります。
私は長年、法務局や公証役場などで相続や遺言に関わる仕事をしてきました。その経験から思うのは、相続への備えで大切なのは財産額そのものよりも、元気なうちに家族のことを考え、できる準備をしておくことだということです。
よくある3つの「まさか、うちが」
① 「言った・言わない」になってしまう
たとえば親が生前、「長男には家を継いでもらいたい。その分、ほかの子には預貯金を多めに残したい」と家族に話していたとします。ところが亡くなったあと、「そんな話は聞いていない」、「いや、確かにそう言っていた」、「でも、私が聞いた内容とは少し違う」ということになる場合があります。誰かが嘘をついているとは限りません。何年も前の会話であれば、人によって記憶が違ってくることは珍しくありません。だからこそ、大切な財産の分け方について意思がある場合には、口頭だけでなく、適切な方法で形に残しておくことが大切です。その代表的な方法が「遺言」です。
なお、エンディングノートに希望を書いておくことも、家族に気持ちを伝えるうえでは有意義ですが、通常、エンディングノート自体に遺言と同じ法的効力があるわけではありません。
「家族へのメッセージ」と「法的な遺言」は、分けて考えておく必要があります。
② 実家は簡単には分けられない
預貯金なら金額で分けることができます。しかし、実家はそう簡単にはいきません。たとえば、「実家に住み続けたい子」と「売却して現金で分けたい子」がいれば、それぞれに事情があり、どちらかが単純に間違っているわけではありません。そこで話合いが難しくなることがあります。
また、一人が実家を相続し、その代わりにほかの相続人へお金を支払う「代償分割」を考える場合でも、支払うための資金をどう準備するかという問題が出てきます。
特に、財産の中で不動産の占める割合が大きい家庭ほど、早めに考えておきたい問題です。誰に何を残したいのか。実家を残したいのか、売却しても構わないのか。その希望を元気なうちに一度整理しておくだけでも、残された家族が考えるための大きな手掛かりになります。
③ 「まだ元気だから」と先延ばしにする
これは、60代・70代の方からよく聞く言葉です。
「まだ元気だから、遺言はもう少し先でいい」
「認知症になってから後見のことを考えればいい」
気持ちはよく分かります。私自身も、終活という言葉を聞けば、「まだそこまでしなくても」と感じる方がいるのは自然なことだと思います。ただ、遺言や任意後見契約などは、本人が内容を理解し、自分の意思で判断できる段階で考えることが重要です。判断能力が十分でなくなってからでは、本人の意思に基づいて選べる方法が限られてくることがあります。
だからといって、今すぐ何もかも決める必要はありません。大切なのは、「まだ元気だから何もしない」ではなく、「元気な今だから少し考えてみる」ということだと思います。
今日からできる「小さな一歩」
最初から公正証書遺言を作ろう、と構える必要はありません。まずはノートを一冊用意して、次の3つを書き出してみてはいかがでしょうか。
・どんな財産があるか
預貯金、不動産、株式・投資信託などを大まかに整理する
・誰に何を残したいと思っているか
まだ決まっていなくても、「できればこうしたい」で構いません
・なぜそうしたいと思うのか
財産の分け方だけではなく、その理由や気持ちを書いておく
私は、この3番目がとても大切だと思っています。たとえば、「長く介護をしてくれたことへの感謝として」、「この家で暮らし続けてもらいたいから」、「子どもたちにはできるだけ同じように残したいから」というように、その人なりの理由があります。数字だけを見ると「なぜ自分は少ないのだろう」と感じることがあっても、その背景にある親の気持ちが分かれば、受け止め方が変わることもあります。
もちろん、こうしたメッセージを書けば相続争いを必ず防げる、というものではありません。それでも、財産だけではなく「気持ちも残す」ことには大きな意味があると思います。
公正証書遺言は、思っているほど特別なものではありません
「公正証書遺言」と聞くと、「難しそう」、「大きな財産を持っている人が作るものでは?」と思う方もいるかもしれません。しかし、決して資産家だけの制度ではありません。
公正証書遺言では、本人の希望や財産関係などを整理したうえで、公証人が遺言者本人から意思を確認し、証人2名の立会いのもとで遺言公正証書を作成します。証人を自分で用意できない場合には、公証役場に相談することもできます。
また、公正証書遺言は家庭裁判所での「検認」が不要で、原本が公証役場側で保管されるという特徴があります。 自筆証書遺言と比べても、方式上の不備や紛失・改ざんなどのリスクを抑えやすい方法の一つです。
なお、現在は自筆証書遺言についても「法務局の自筆証書遺言書保管制度」があり、この制度を利用して保管された遺言書については、家庭裁判所の検認が不要となっています。
ですから、「公正証書遺言か、自筆証書遺言か」と単純に優劣をつけるのではなく、財産の内容、家族関係、遺言の内容などに応じて、自分に合った方法を選ぶことが大切です。
「終活」は、人生の終わりだけを考えることではありません
「終活」という言葉には、少し重たい印象があります。でも、私たち夫婦も60代になって思うのは、終活とは必ずしも「死ぬ準備」ではない、ということです。
これまでの暮らしを一度整理して、「これからどう暮らしたいか」、「大切なものは何か」、「家族に何を伝えておきたいか」を考えてみる。
その延長線上に、財産整理や相続、遺言があります。クローゼットを整理したり、スマートフォンの中を整理したり、家計を見直したりするのと同じように、財産や法務のことも「暮らしの整理」の一つと考えてみると、少し取り組みやすくなるのではないでしょうか。
全部を一度にやる必要はありません。今日は預金口座を一つ確認する。明日は証券会社の名前を書いてみる。そして時間のある日に、「自分は家族に何を残したいのだろう」と少し考えてみる。それくらいからで十分です。
終活は、家族のためだけではなく、これからの自分たちが安心して暮らすための準備でもあります。
まずはノート一冊から、始めてみませんか。